梅の事あれこれと小田原梅干の歴史

◇そもそも梅とは◇


 梅(学名:Prunus mume)は、バラ科サクラ属の落葉高木。

 原産地は中国で、『斉民要術』に白梅(梅の実を塩水に漬けて調味料などとして用いるもの)や烏梅(梅の実を燻して乾燥させたもの)などの記載があり、遣唐使によって日本にもたらされたと考えられている。果実は梅干などに加工して食用とされるが、樹木と花は鑑賞の対象にもなり、当時から庭木としても親しまれていた。花見や梅まつりが開かれる梅林や梅園が各地にある。

 和名ウメの語源には諸説ある。一つは中国語の梅(マイ、ムイ、メイ)が日本的な発音でウメとなったという説で、渡来当時はmme(ンメ)のように発音していたが、これが「ムメ」のように表記され、さらに mumeとなりume (ウメ)へと転訛したというもの。また一説には、漢方薬の烏梅(ウメイ)が転訛したともいわれている。

 代表的な品種は中梅としては南高梅、白加賀、豊後、十郎梅、鴬宿、古城梅などがあり、小梅としては竜峡小梅、甲州最小、織姫、白王などがある。

 加工用の梅は和歌山県のみなべ町、田辺市周辺が日本で最大の産地となっている。

◇故事来歴◇

 

 梅干しが初めて文献に登場するのは10世紀中頃のことである。村上天皇が梅干しと昆布茶で病を治したという言い伝えが残っている。

 戦国時代になると梅干しは保存食としてだけではなく、傷の消毒、戦場での食中毒や伝染病の予防になくてはならないものとして、陣中食に使われた。梅干しは戦略物資の一つとなり、戦国武将たちは梅の植林を奨励した。これは現在でも梅の名所や梅干しの産地として残っている。

 江戸時代になると、現在の梅干の作り方とほぼ同じ作り方が『本朝食鑑』(1697年)に現れる。「熟しかけの梅を取って洗い、塩数升をまぶして2、3日漬け、梅汁ができるのを待って日にさらす。日暮れになれば元の塩汁につけ、翌朝取り出しまた日に干す。数日このようにすれば梅は乾き汁気はなくなり、皺がよって赤みを帯びるので陶磁の壷の中に保存する。生紫蘇の葉で包んだものは赤くなり珍重される」とある。

 近代でも長期の保存がきくため、前線の兵士は梅干しを携行糧食として携行した。

                                 参考:ウィキペディア


◇小田原梅干の歴史◇

 

 梅実 足柄下郡小田原宿、鎌倉郡玉縄領辺に産す。
古風土記残本にも富国の産に列す。
消梅実は足柄上郡上曽我村に産す。

                                 新編相模風土記より


 小田原梅干は北條家が軍用として貯蔵することを奨励したので、足柄地方の家毎に必ずニ三株を栽培せしめた。

 北條家の滅亡後領主は、稲葉、大久保と代わっても士分の邸宅には必ず梅樹を栽ゆると云う習慣は忘れられずに近年にまで及んだのである。

 参勤交代の西国諸侯が小田原宿を通過する毎に郷里の家苴として箇所求めたのは、小田原名産紫蘇巻梅干であった。

 朝 未明に山を越す魅除の小田原提灯と山霧を避くる用心の小田原梅干は箱根山麓にはなくて
はならぬ物であった。

 小田原梅干の名を冠するに至った来歴は実に徳川幕府の旺盛期の頃からである。

 北條家の遺風を回想すべきものは、僅かに紫蘇巻梅干位であって、それが上下の旅客に唱道さ
るることとなった。

 限りある附近の梅樹のみでは、無限の需要
に応じられぬので文化文政の頃、前川の一商
人が甲斐奥羽の産地に梅実の買出に行った。

 近年に至りては駿遠地方から紀州方面の産
地にまでもその購買力を及ぼし、前川村の製
造業、山市、山萬、丸長、丸イ、その他十数軒
により製造されて小田原市場に上し、全国各地
から集まった梅実が小田原梅干の名を胃して
再びその生産地に錦を飾るのである。

 前川村で製塩を業としていたのは永い歴を伝えていた。
 近来は全く廃絶をしたが、此の副業の梅実、野菜の漬物業は長足の進歩を来し、旅客に供給し
ていた梅干の如きは更に海外に向って輸出するに至ったので米国及布哇の東洋人は何れも相州梅
干によりて、身の異郷にあるを覚えぬとまで云っている。

 前川塩蔵業者に一革命を与えたのみならず、小田原梅干の棹尾の名声を博したものである。

                     前羽村誌(大正15年1月1日発行)より抜粋



 梅は中国の原産で、わが国には古代に中国から渡来したと言われているが、梅干はわが国の特
産である。
酸味の食品として西洋にピクルス、中国に乾梅、白梅などがあるがいずれも梅干には及ばない。

 東海道中膝栗毛で弥次郎兵衛が

    梅漬けの名物とてやとめ女
           口を酸くして旅人をよぶ

            と詠んでいるが、名物も梅干となると、まず小田原と誰もが考える。

 小田原で梅干が造られるようになったのは北條氏 以来のこと云われ、始めは軍用に供するためであった。

 徳川時代に入ると、箱根越えの旅人が 渇きをいやし、弁当の腐敗を防ぐために使用する ようになり、雲助などは裸一貫の生活をしながらも梅干だけは欠かさなかったと云う。

 霧の多い山路では口に含んで息を吹き出せば、霧が晴れて危難を免れるとも云わ
れたものだった。
 小田原から国府津、二宮へかけて西湘一帯の海岸に塩田があったこと、小田原産の梅が肉厚
く、核小さく、身ばなれのよかったことこともその発達を助けたが、二百余年ほど前に大久保氏
が砂塵除けとして紫蘇を巻きはじめてから、小田原特有の紫蘇巻梅干ができあがった。

                                 小田原市誌より抜粋


  国府津から二宮にかけた西湘一帯には漬物業者の老舗が多く存在する。
この地域は昔、塩田が栄え、その副業として漬物が盛んになったといわれ、明治27年には前川
漬物組合(現在の湘南漬物工業組合)が組織されている。

 小田原・前川(前羽村)の梅干は曽我の梅を
漬け込んだもので、北條氏以来軍用に用いら
れ、徳川時代には参勤交代の武士や箱根越え
の旅人の土産に、また、弁当などの腐敗防止
用として重宝に使用された。

 日清、日露戦争の際にも大量に軍納され、旧
満州の大連における日本軍の伝染病流行時に
その薬効により数百、数千の命を救ったという
記録もある。
 梅干以外に、野菜の漬物も古くから行われ、種類も豊富で、製法も長足の進歩を遂げてきてい
るが、それらの中には、他県には殆どない、この地区特産の「桜花漬」もある。

                              中南信金地場産業拝見より


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