このページでは、小田原梅干の歴史と梅干のあれこれを紹介をしております。

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故事来歴

梅実 足柄下郡小田原宿、鎌倉郡玉縄領辺に産す。
古風土記残本にも富国の産に列す。
消梅実は足柄上郡上曽我村に産す。

                                      新編相模風土記より


小田原梅干は北條家が軍用として貯蔵
することを奨励したので、足柄地方
の家毎に必ずニ三株を栽培せしめた。

北條家の滅亡後領主は、稲葉、大久保
と代わっても士分の邸宅には必ず梅樹
を栽ゆると云う習慣は忘れられずに
近年にまで及んだのである。

参勤交代の西国諸侯が、小田原宿を
通過する毎に郷里の家苴として箇所
求めたのは小田原名産紫蘇巻梅干で
あった。

朝 未明に山を越す魅除の小田原提灯と山霧を避くる用心の小田原梅干は箱根山麓には
なくてはならなぬ物であった。
小田原梅干の名を冠するに至った来歴は実に徳川幕府の旺盛期の頃からである。
北條家の遺風を回想すべきものは、僅かに紫蘇巻梅干位であって、それが上下の旅客
に唱道さるることとなった。

限ある附近の梅樹のみでは、無限
の需要に応じられぬので文化文政
の頃、前川の一商人が甲斐奥羽の
産地に梅実の買出に行った。

近年に至りては駿遠地方から紀州
方面の産地にまでもその購買力を
及ぼし、前川村の製造業、山市、
山萬、丸長、丸イ、その他十数軒
により製造されて小田原市場に上
し、全国各地から集まった梅実が
小田原梅干の名を胃して再びその
生産地に錦を飾るのである。

前川村で製塩を業としていたのは永い歴を伝えていた。
近来は全く廃絶をしたが、此の副業の梅実、野菜の漬物業は長足の進歩を来し、旅客に
供給していた梅干の如きは更に海外に向って輸出するに至ったので米国及布哇の東洋人
は何れも相州梅干によりて、身の異郷にあるを覚えぬとまで云っている。
前川塩蔵業者に一革命を与えたのみならず、小田原梅干の棹尾の名声を博したもので
ある。

                          前羽村誌(大正15年1月1日発行)より抜粋


梅は中国の原産で、わが国には古代に中国から渡来したと言われているが、梅干は
わが国の特産である。
酸味の食品として西洋にピクルス、中国に乾梅、白梅などがあるがいずれも梅干に
は及ばない。

東海道中膝栗毛で弥次郎兵衛が

    梅漬けの名物とてやとめ女
           口を酸くして旅人をよぶ

と詠んでいるが、名物も梅干となると、まず小田原と誰もが考える。

小田原で梅干が造られるようになったの
は北條氏以来のこと云われ、始めは軍用
に供するためであったが、徳川時代に入
ると、箱根越えの旅人が渇きをいやし、
弁当の腐敗を防ぐために使用するように
なり、雲助などは裸一貫の生活をしなが
らも梅干だけは欠かさなかったと云うし、
霧の多い山路では口に含んで息を吹き出
せば、霧が晴れて危難を免れるとも云わ
れたものだった。

小田原から国府津、二宮へかけて西湘一帯の海岸に塩田があったこと、小田原産の梅が
肉厚く、核小さく、身ばなれのよかったことこともその発達を助けたが、二百余年ほど前に
大久保氏が砂塵除けとして紫蘇を巻きはじめてから、小田原特有の紫蘇巻梅干ができ
あがった。

                                      小田原市誌より抜粋


国府津から二宮にかけた西湘一帯には漬物業者の老舗が多く存在する。
この地域は昔、塩田が栄え、その副業として漬物が盛んになったといわれ、明治27年
には前川漬物組合(現在の湘南漬物工業組合)が組織されている。

小田原・前川(前羽村)の梅干は曽我
の梅を漬け込んだもので、北條氏以来
軍用に用いられ、徳川時代には参勤
交代の武士や箱根越えの旅人の土産
に、また、弁当などの腐敗防止用と
して重宝に使用された。
日清、日露戦争の際にも大量に軍納
され、旧満州の大連における日本軍の
伝染病流行時にその薬効により数百、
数千の命を救ったという記録もある。



梅干以外に、野菜の漬物も古くから行われ、種類も豊富で、製法も長足の進歩を
遂げてきているが、それらの中には、他県には殆どない、この地区特産の「桜花漬」もある。

                                   中南信金地場産業拝見より
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